リカレント!

Life is either a daring adventure or nothing.

【熊本地震ボランティアに向けて】東日本大震災のとき、この言葉が私を動かした

 熊本市が、平成28年4月22日(金)午前9時からボランティアセンターを設置し、熊本地震のボランティア受け入れを開始するとのことだ。
 益城町も、平成28年4月21日(木)からボランティアセンターを設置するとのこと。
 
 東日本大震災のとき、テレビや新聞を通じた情報だけでは、本当の現地の状況を知ることができないことを身をもって知った。手触り感や匂いのある情報は、メディアを通じて伝わってこないから。
 
 前回の震災時、私は法学部への進学を控えた大学2年生だったが、現地に行くことの重要性を教えてくれたのは、中学の時の塾、高校、大学と同じ道を歩んできた同級生だった。
 
 彼は当時、震災直後に宮城県の名取市に入り、辛い現状を目の当たりにしながら活動し、その経験を自ら語ることで東大生200人を動かした。
 私もその1人であるが、今回の熊本地震に少しでも資することを祈りながら、当時私を動かした彼の心の叫びを再掲したい。
 
 
(以下、原文ママ)

どうか目を逸らさないで下さい。

連日の報道に辟易しているかとは思います。
でもどうか最後まで読んで下さい。
これは報道から黙殺されつつある被災地の本当の声なのです。
私は宮城県名取市で災害ボランティアに入りました。
その報告です。
 
名取市は真っ黒になった濁流が瓦礫を巻き込みながら畑や家屋、車を押し流す様子がヘリから生中継されました。
ボランティアセンターが立ち上がったという情報を得てすぐに準備にかかった。
真冬並みの気温の続く被災地へ向かうためにチベットを越えた重装と、何も手に入らないという前提のもと水14㍑に二週間分の食糧を担いで東京を発った。
予め断っておくと、動機は、被災者を救おうといった立派な志は確かにあるにしろ、むしろこの無気力な生活、即ち将来の不安や日常への不満を抱きながらの、社会と隔絶した「生きてるのか死んでるのかも分からないような生活」を脱却して、生きていることを実感しようという思いがあった。
しかし被災地に足を踏み入れるとそんな私情はどうでもよくなった。
画面では何度も観た筈なのに、実物の衝撃はそれを遥かに凌駕していた。
映像は簡単に記憶からすり抜けるが、臭い、風、湿度、埃っぽさなどを抱合する環境全てに向き合ったとき、それは驚異的なリアルとして押し寄せ、脳裏にしっかりと焼き付いた。
膝がガクガクと震え歯の根が合わない感覚。
人の営みがあったとは俄かには信じがたい光景。
アゼルバイジャンで見た爆撃を受けた廃村を思い出す。
私の貧しい想像力では何がどうなって、バスがくの字に折れ曲がって、建物の二階部分に張り付くのかうまく想像できなかった。
何もかもが想像を絶し、常識はかけらも通用しなかった。
ひたすら地道に目の前の泥を掻いて、瓦礫をひとつずつ運び出すよりほかなく、無我夢中で働いた。
ややもすると虚しさに押し潰されそうなほど微力だった。屍体の沈む廃墟に入り活動する中で、朝方の鳥肌や、空腹感、作業中の拍動さえもが恩寵に感じられた。
「生きている。」
今こうして生きていることの奇蹟を心底実感した。
 
統計は全てかつてない数値を叩き出しているが、失ったものを数え上げるのではなくて、残ったものを数えなければならないのだ。前を向いてやっていくほかないという人々の生きる力にかえって励まされてしまった。
かつて自宅があった更地でひとしきり泣いて、これからは絶対泣かないと決意した家族は今も闘っていることだろう。
閖上地区での作業は過酷で危険と隣り合わせだった。
朝九時にチームを組み、車の三台突っ込んだローソンまでバスで送ってもらい、そこから歩く。
見渡す限りの凄惨な光景に毎日茫然として、結局最後まで目が慣れることはなかった。
海水が腐臭を放ち、泥は乾く気配もなくヘドロの如く粘つき、水を含んだ畳や絨毯はとてつもない重さになっていた。
毎日釘を踏んで病院送りが出た。
私も指をぱっくり切って病院にかかった。
破傷風を始め泥にはどんな菌がいるか分からないから危険だ。
さらに凄まじい砂塵が舞い急性肺炎の虞さえあった。
 
現場では相当な数の写真が出てくる。
出てくるたびに泣けてくる。
戻ってからみんなで涙目になりながら「この人無事だといいなあ」と祈りながら一枚一枚丁寧に洗った。
思い出の品として戻るか、形見になるかは大違いだった。
 
フィジカル面でもメンタル面でもあまりに過酷で、雇われたらとてもできない、ボランティアだからこそできる仕事だった。
避難所では、薄い毛布一枚、朝パン1、2個、昼なし、夜おにぎり数個。ここは先進国日本で、三週間経つのに、である。
プライバシーはかけらもなく食べ物や体臭の混ざった異様な臭いに満ちている。
消灯後は咳をするにもトイレに行くにも、周りを起こさないように気を使う。
とてつもないストレスがかかっている。
人間の生活する場所じゃない。
避難所の中でさえ唾を吐く子どもがいた。
不安なのだ。
ところが体育館には毛布や食糧など支援物資が山積みになっていた。
なぜ?行政が出さないのだ。
搬入と配布数を把握しないと出せないというのだ。
市役所だって何人も亡くなって深刻な人手不足で、そこまでできるはずがない。
そもそも支援物資の数なんて把握する必要があるのか。
おむつを下さいとはるばるやって来た女性がいた。
山程あるのに出せなかった。
倉庫を見たら暴動が起ころう。
みんな優し過ぎる。
自分たちより辛い人もいるはずだからあまり文句を言わないようにしましょう、とこうなのだ。
雪国の美徳がこんなところにも影を落としていた。
一方避難所の自治組織にも問題がある。
ボランティアはニーズが上がってこないと派遣できないわけだが、子どもの遊び相手のニーズはあるが、独りぼっちの老人の話し相手のニーズはないのだ。
自治組織にプロ意識がなく、一時も早い生活改善の期待ばかりで、老人のケアに気が回らない。あるとき避難所で生活してはいるが、ボランティアに参加したいという男性が来た。
しかし服はこれ一着しかないから汚せない、と言った。
衣類は大量に送っているはずなのにどうして?訊けば衣類の配付となると女性が真っ先に並んでしまい、自分の番には子どもの服しか残っていないのだという。
避難所の中にも強弱関係があるのだ。
仮設住宅もコネで決まっていくという話もあった。
車・お金のある人は買い物もできるが、着のみ着のまま逃げて来た人は身分証も失われお金をおろすこともできない。
風呂も抽選で、卒業式なのに入れなかったという女の子がかわいそうで仕方なかった。
自分でSOSを出せない本当の弱者の声が構造的に抑圧されている。
行政も避難所もそれぞれ一生懸命で、両者を取りもつボランティアセンターも頑張っているのに歯車が噛み合ってこない。
歯がゆくもどかしい思いがする。
名取市にはボランティア団体が入っていないので、県外から来られるのはフットワークが軽く、装備を持ち合わせた人々、即ちバックパッカーや山の男たちだった。
みな縁や巡り合わせを信じる魅力的な人々で、口を揃えて「明日は我が身」と言った。
有休を使い果たして来た人も少なからずいたし、阪神、中越の被災経験者はさも当然という様子だった。
 
しかしあるとき現地の女性の学生に、キャンプ気分で物珍しさに遊びに来ている、と痛烈に批判された。
確かに傍から見ればそうかもしれない。
同類の人間ばかりなので話に花が咲いたりしたのは軽率だった。
しかし今回は善意しかないのだけにひどく堪えた。
すでに一週間を数えた活動全てを否定されたような気がしたから。
県外勢みな一様に帰るかどうか真剣に悩んだ。
出てくるときは自己満足だとか偽善だとか批判され、こちらでも物見遊山と思われる。どこにいても風当たりは強い。
でもほとんどの人は心から感謝してくれているから、その人たちのために頑張ろうと決め、自分の予定日まではやり抜く決意を固めた。
なんと言われようと開き直って突き抜けていくしかない。
 
駐車場にひっそりと張ったテントは次第に噂が広がり、やがて住所が与えられ(テント村一丁目一番)、終いには第二の我が家となった。
あそこにテントを張っているだけで、わざわざ遠くから来て寒い思いして(髪が凍る)まで頑張ってくれているんだ、と多くの人を勇気づけることができた。
 
仲良くなった現地の大学生たち(同級生10人が亡くなっている)が私がろくな食事をしてないことを気遣って牛丼を買ってきてくれた。
久々の釜で炊いたご飯は気持ちがこもって一層うまかった。
 
最後の日、お世話になったボランティアセンターの方々に挨拶に行くと、責任者の方がスタッフ全員に「テント第一号の彼が東京に帰りますよ」と声を掛けてくれ、全員から惜しみない拍手と身に余る感謝の言葉を贈られた。
気恥ずかしくて申し訳なくて穴があったら入りたい気分だった。
だって明日は我が身と思えば当然のことしたまでだから。
安住の日常に帰って行く私を、先の見えない闘いの続く人々があんなにも感謝してくれた。
一緒に闘った仲間だと言ってくれた。
人生でこんなにも人のためになったことはなかった。
家族や家を失った人々がなぜよそ者でもある私のことまで気遣うことができるのか。
…何か失った人は人の気持ちが分かる、ということに思い至りひどく狼狽した。
大きな代償があったのだ。
全員が仏様のように見えた。
 
名状しがたい惨状を自分の目で見て、少しの間でも現地の人々に交じってともに働き、語らう。
そうすることで初めて見えてくることがたくさんある。
ただ通り過ぎて行く記者やカメラマンには何も見えないし、本当の声は聞こえてこないだろう。
現地とフェイス・トゥ・フェイスで関わり、ひとたび彼らの同志となれば、忘れることは不可能となる。
帰る頃には固い友情と愛着が生まれていた。
 
私はたまたま取り結んだ縁が名取市だった。
この縁は今や絆となって、常に被災地について忘れると警鐘を鳴らしてくれる。
名取市ボランティアセンター東京支部の心積もりである。
そしてまだまだすべきことがある。
 
惨劇を伝え風化させないこと。
被災地に独りじゃないと発信し続けること。
これは行った人間の責任。
 
さらに募金の呼び掛け。
住んでいる住宅で義援金を募ろうと思った。
仮に全世帯が1000円拠出すれば50万円寄付できる。
ところが家族に相談したところ、「募金のお願いが来てもうちは1000円どころか、500円も出せない」というそっけない返事だった。
愕然とした。
決して裕福ではないが明日の食事に困るほど貧しくもないのだから、しばらくヨーグルトを我慢するとか、食堂で一番安いものを選ぶとか、そんな些細な我慢で捻出できる額なのに。
これがおよそ実害のなかった不特定多数の一般人の感覚なのだ。
結局自分が一番かわいくて、人間の生活とは思えないほど悲惨な被災者の暮らしに比べたら何でもないようなこと(たばこやお酒や嗜好品をちょっと減らしてみる、かえって健康にはよさそうだ)なのに、少しだって自分の生活の水準を下げることができない。
彼らの壮絶な忍耐に比べればなんてこともないような僅かな我慢を共有することもできない。
想像力をちっとも働かすことができないのだ。
そして私自身も一般人の感覚について想像力が足りなかった。どれほど悲惨な生活を強いられているかその目で見ないことには分からないのだ。みんな進んで募金するものと甘く考えていた。一気にあらゆる情熱が冷め、涙が溢れてきた。
私が関わった名取の人々の顔がひとりひとり浮かんできて、とめどなく涙が流れ落ちた。
これは私ひとりの涙ではなく、被災者全員の涙だったと思う。
大声でしゃくり上げながら「ごめんなさい…何もできないです」と失意の中謝り続けることしかできなかった。
「こうやって忘れられていくんだ。」
悔しかった。
 
日常に追われ連日の報道に辟易した世論の関心が、急速に薄れるに従って増大していく、「取り残され、忘れられ、見捨てられる」ことへの被災地の恐怖が手にとるように分かった。
心は被災者とともにあった。
「テント村一丁目一度はいつも開けておくよ」というセンター長の言葉の背後には、そういう不安があったのだろう。
誰かそばにいて欲しいに決まってる。
被災地にとっては関心が一段落したこれからが本当の闘いなのだ。
 
だから私は忘却に警鐘を鳴らし続けます。
私は志高く情熱的な青年学生でもないしSNSもやってないしサークルに入ってもいないので人前に出たり数を動員する力はありません。
ですからこの拙稿から何か感じた方はどうかこの文をできるだけ多くの人に広めて下さい。
 
しかしボランティアに行った人の話が行かなかった人に後ろめたさを抱かせては意味がありません。
どうかそれぞれできることを考えて下さい。
 
被災地で活動したいという方、相談のります。
受け入れ態勢の不備などから県外募集を行っていないところも多いですが食糧から寝床から自分の面倒を見られる人はむしろ歓迎されます。
人手不足は火を見るより明らかです。
 
東京から日帰りのボランティアも見ました。
行けない方でも是非とも募金に協力お願いします。
明日は我が身、です。
少しでも我慢を共有してみんなで乗り越えていきましょう。
 
私はGWに再び名取に行く積もりです。
ひょっこりあの緑のテントを張るだけで、忘れてないよ、独りじゃないよというメッセージになると信じているから。