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フリーランスやノマドって、もっとカッコいいイメージだった

フリーランスの教科書 (星海社新書)

フリーランスやノマドに対するイメージ 

 大学卒業後に働き始めてから、本業とは別に、とあるプロジェクトに参加していた。

 それは、東日本大震災で被害を受け、人口が大きく減少した東北の沿岸部に、日本中・世界中のフリーランスやノマドを集めるための拠点を作ることを目指したプロジェクトだった。

 私以外にも多くの仲間が参加して、喧々諤々と議論を交わしていたのだが、今振り返ってみると、「なんと的はずれな議論をしていたのだろう」ということを強く思う。

 その原因は、フリーランスやノマドに対するイメージが、実態と大きくかけ離れていたことにある。

 

 例えば、Wikipediaでフリーランスを調べると、次のように書かれている。

 フリーランス(英: freelance)は、特定の企業や団体、組織に専従しておらず、自らの才覚や技能を提供することにより社会的に独立した個人事業主もしくは個人企業法人である。

 これを読んで想起される「フリーランス」に対するイメージはどのようなものだろうか。

 恐らく、上に書いたフリーランスの定義が、フリーのカメラマンやプログラマー、アナウンサーといった、古くからあるフリーランスの定義なのであろう。「フリーランス」という言葉について解説した多くのウェブサイトや書物に、これに類する説明が載っている。

 別に、これ自体が間違っているわけではないが、このような説明は、「フリーランス」という実像の極めて一部しか汲み取っていないように感じる。

 昨今、「新卒でフリーランス」とか、「退職してフリーランス」とかいう話を聞くが、そういった文脈で語られる「フリーランス」の多くは、「自らの才覚や技術」をどこかに「提供」したりはしていないのではないだろうか。

 あくまでも誰からも拘束を受けずにお金を稼ぐ自由な業態が「フリーランス」と呼ばれているのであって、必ずしも誰かにその技術等を提供する必要はない。

 いわゆる「ブロガー」が「フリーランス」に入るのかどうかは議論があるところだと思うが、多くの文脈において、ブロガーも含む広義の「フリーランス」という用語がまかり通っているように感じる。

 

 しかし、上述の議論をしていた当時の私は、「フリーランス」という言葉遣いに、バリバリにプログラムがかけるような新世代の労働者達のことを想起し、「ブロガー」のことなんて眼中になかった。

 できることならば当時の私に伝えたい。「そもそものターゲティングを修正すべき」だと。

 

 世間では、「フリーランス」という言葉を聞いて、当時の私のように、光る才能を持った若者が、自分の好きな時間に企業から請け負った仕事をこなし、自由時間は悠々自適に過ごす、そんなイメージを抱く人もまだまだいると思う。

 しかし、ネット上に出現する「フリーランス」の大半は、決してそうではない。

 確かに、社会人と違って、自由な時間は多いかもしれない。

 だが、彼らの現実は、どんなコンテンツを提供すれば衆目を集められるかを考えながらパソコンの画面に向かって黙々と文字を打ち込む毎日であり、地道な作業で溢れかえっているのである。

 

 別に、フリーランスという働き方自体、そんなに悪いものではないと思うし、そのスタイルが合っている人もいると思うのだが、例えばフリーランスをターゲットにした事業を行うとき、例えば大事なものを捨ててフリーランスになるという人生の選択をするとき、間違っても、過度な期待が結ぶフリーランス像だけを見据えてはいけない。地に足の着いたフリーランスの現実も前提に、その上で思考を進めなければいけないのである。