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3年でエリート公務員辞めた結果…

月間30万PV以上!元国家公務員(総合職・旧1種)による備忘録。通称「さんエリ」

憲法記念日だから憲法の話をしよう【憲法施行70周年】

憲法 第六版

憲法について改めて考える

 5月3日は、憲法記念日です。

 かつての私にとってもそうであったように、憲法記念日といっても、海の日や山の日と同じ単なる祝日の一つにすぎず、そこに特別な意味を見いだす人はあまりいないでしょう。

 本来はそれでいいのだと思います。憲法というものが、国民の意識の根底に根付いていることの証だからです。

 ところで、なぜ5月3日が憲法記念日とされるかというと、1947年5月3日に日本国憲法が施行されたことに由来します。

 1947年というと、今から丁度70年前。

 節目であり、いい機会なので、憲法というものが一体どういうものなのか、その構造について考えてみたいと思います。

はじめに

 法律に馴染みのない方でも、「六法」という言葉を耳にしたことのない方はいないでしょう。「六法」とは、憲法・民法・商法・民事訴訟法・刑法・刑事訴訟法の6つの法律のことで、数多く存在する法律の中でも最も基本的な法律です。

 ただ、このように憲法も含めて六法と呼ぶことから、多くの方に生じている誤解が、憲法も法律のひとつにすぎないというものです。

 憲法は、形式的にも実質的にも、他の法律よりも上位に位置する、特別な法規範なのです。

 その背景にあるのが、次のような考え方です。

憲法に通底する思想 

 憲法や国家が存在しない「自然状態」において、人間は、人間であることだけに由来する権利「自然権」を有します。この「自然権」は、本来、外在的な制約も内在的な制約も有しないものです。

 しかし、自然状態は「万人の万人に対する闘争」(ホッブス「リヴァイアサン」)の状態であることから、弱肉強食の原理が働いてしまい、そのままでは自然権が十分に保護されることはありません(いわば、マッドマックスの世界です)。

マッドマックス 怒りのデス・ロード(字幕版)

 そこで、人々は自然状態から脱却するために社会契約を締結し、その内容に従って「国家」という共同体が形成されるのです。

社会契約論 ─まんがで読破─

 社会契約は、書面がなくても効果が生じます。しかし、後になって「そんな約束をした覚えはない」と覆されては困りますから、多くの場合にその内容を文書化します。そうして文書化されたものが日本国憲法等の「憲法典」なのです(成文憲法)。

 このような経過を辿って作成された憲法ですから、憲法が第一に規定するのは、「自然権に由来する権利の保護」であり、第二に、「権利を保護するための制度」となります。

 日本国憲法も、この仕組は変わりません。

 生前から憲法の第一人者であり、1999年の没後も未だに約20年以上にわたり憲法学の最高権威であられる芦部信喜先生は、日本国憲法の構造を次のように図示されています

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(芦部信喜「憲法第六版」p.397より)

 シンプルな図であるため読み解くのが難しいのですが、その内容は大きくわけて2つです。

  1. そもそも憲法典の外側に存在していた「自然権」が、憲法典の中で「個人尊厳の原理」に実定化し、それに基づいて基本的人権(人権宣言)が保障される
  2. 憲法典の外側に存在していた「自然権」は、それを保護するために当然権力の制約をすることが必要とされ、そのために憲法典の外側に「国民の制憲権」というものが存在している。制憲権とは文字通り、憲法を制定する力であり、それにより日本国憲法という憲法典が作られるとともに、その内部で「個人尊厳の原理」の下「国民主権」に転化する。
     国民主権には、「正当性の契機」と「権力性の契機」の2つの意味があるが、日本国憲法においてより重きを置かれている正当性の契機は、①代表民主制を通じて立法権(国会)に正当性を付与し、②その国会から正当性を継承した行政権(行政機関)、③さらには違憲審査制による憲法保障という観点から重要な役割を果たす裁判所とともに基本的人権に奉仕する。
     一方で、国民主権のもう一つの意味である権力性の契機は改正権へと転化し、それが硬性憲法としての性質を憲法典に付与し、形式的にも他の法律よりも上位の存在として位置づけることになる。

 と、シンプルな図と長ったらしい文章で書かれてもいまいちピンとこないと思いますので、私の方で恐縮ながら芦部先生の図に手を加えて作成したのが下の図になります。

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 なお、本来的には、自然権がそのまま基本的人権に実定化することも可能ではありますが、そうすると、基本的人権を法律論の中で論じる際に憲法の外側にある抽象的な概念である自然権を持ってこなければいけないことになりますから、あえて一度、自然権を全体として個人尊厳の原理(13条)に実定化させた上で、そこから基本的人権を導くような構図を採っているのです(芦部p.82参照)。

自然権と基本的人権との関係

 以上のような話を踏まえると、次のように思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 「憲法が保障する基本的人権は、人間が有する自然権(観念上の人権)の一部を形にしたもので、保障する範囲が狭いのではないか」

 これは私も以前勘違いしていたのですが、よくよく考えるとそうではありません。

 憲法は、自然権を守るために存在していることから、その保障の有効性を確保するために、あえて本来の自然権(観念上の人権)よりも広く保障されているのです。そうすることによって、萎縮効果によって観念上の人権が侵害されることを防止しています。

 このことは、表現の自由(21条1項)をめぐる憲法訴訟に関して考えてみればわかりやすいと思います。

 憲法訴訟においては、「観念上の人権が制約されていないか」ということが判断における重要な考慮要素になるわけですが、たとえば猥褻表現や名誉毀損表現といった、社会的な害悪が大きい表現に対する規制が合憲とされる場合があります。

石に泳ぐ魚 (新潮文庫)

 このことは一見、憲法21条1項が「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」として、表現行為一切をひっくるめて保障しているように見えることと矛盾するように思えるかもしれません。

 しかし、憲法が本来保障すべきは「観念上の人権」であり、また、社会契約基づく共同体の中で保証される基本的人権は内在的制約を当然有しているわけですから、観念上の人権が制約されない限りにおいて、憲法に規定された基本的人権もその内在的制約に服することになるのです(←ここで一元的内在制約説的な考えを持ち出していることについては、反論の余地あり)

 ※なお、社会的な害悪が大きい表現に関する表現の自由が憲法21条1項によってそもそも保障されないのか、21条1項によって保障されないものの13条によって保障されるのか、それとも21条1項でも13条でも保障されないのかについてはよく考えなければならない(後述)

 したがって、個別の権利に関して見てみると、その保障範囲は

「自然権(観念上の人権)」<「憲法上の基本的人権」

となるのです。

 また、基本的人権として個別に列挙されていない人権(環境権やプライバシー権)についても、当然憲法の保障の範囲内にあるわけで、それは自然権が包括的に実定化した個人尊厳の原理(13条)に根拠を求めることになります。

以上はあくまで擬制(フィクション)です

 と、以上つらつらと述べましたが、日本国憲法が戦後の日本で明治憲法の改正という形で制定されたように、実際に社会契約が締結されて、憲法が出来上がったわけではありません。

 以上のことは、あくまでも「擬制」にすぎないのです。

 ただ、「擬制」だからといって蔑ろにしていいかというと、決してそうではありません。

 歴史的経緯がどうであれ、そのような擬制の下で制定された憲法ですから、憲法について考える上ではその枠組のなかで議論すべきですし、それによって、人間が本来有している権利(自然権)が保障されることになるのです。

 また、このような擬制をとらなければ、日本を統治している政府がその存立基盤の一切を失うということも見落としてはなりません。

天皇制や9条、個々の権利について

 さて、以上が憲法の話をする上での大前提となります。

 本当はここから、天皇制や憲法9条、それから各種基本的人権について論じたいところではあるのですが、そこまで行くと冗長になってしまうので、ひとまずはここで今回の記事は終えて、続きはまた別の記事で書きたいと思います。

 憲法70周年を機に、改憲派・護憲派ともに機運が高まっていることでしょう。

 憲法自体を変えることは、時代の潮流に対応するために許容されうると思いますが、それは決して、日本国憲法が守るべき核心部分を侵害するものであってはなりません。

 平和的生存権等の個別の論点にいきなり飛びつく前に、まずは、憲法が一体どういうものなのかよく考えた上で、具体的な議論をされてみてはいかがでしょうか。

おまけ:私の経験と照らして

 思い返してみれば、私が以前勤めていた総務省という役所は、数ある中央省庁の中で最も憲法に近い、言い換えれば「憲法の価値の実現に貢献しうる」役所であるように思います。

 上述のように、日本国憲法における統治の基本は、憲法により権力を縛りつつ、代表民主性を通じて統治機構に正当性を付与する、立憲民主主義です。

 「立憲」の観点からは、憲法によって実体化された行政権からの違法な権利侵害を防ぐための行政不服申立制度について、総務庁を前身とする総務省行政管理局が有しています。

 さらに、国民主権の原理に基づく「民主主義制度」の核たる選挙制度を、総務省自治行政局選挙部選挙課が所掌しています。それに加え、「民主主義の学校」(ブライス)たる地方自治制度を、自治省を前身とする総務省自治行政局・自治財政局・自治税務局の3局が一体となって支え、それにより国民の居住移転の自由(22条1項)ないし生存権(25条)にも貢献しています。なお、居住移転の自由は歴史的沿革から経済的自由の側面が強調されがちでありますが、現代においては精神的自由の側面も強く有しているということを忘れてはなりません。

 また、総務省が有する消防庁が、給付行政の側面を強く持ちながらも、日本全国どこでも安心安全に暮らすことができる体制を確保しようとしているという点で、自治三局と一体となって居住移転の自由や生存権に貢献しているということも見落としてはならなりません。

 それから、郵政省を前身とする情報流通行政局や総合通信基盤局は、テレビやインターネットといった情報通信インフラを公平に整備し、精神的自由の最たるものである表現の自由(21条1項)及びそこから派生する知る権利に貢献するだけでなく、最近ではテレワークの普及により法の下の平等(14条)にすら貢献しようとしています。

 

 残念ながら、私は在職当時、このようなことをあまり意識したことはありませんでした。どうしても目の前の仕事に忙殺されてしまって、大局的観点を持つことができなかったのです。

 総務省で仕事をし、そして今、新たな途に進もうとしている自分の人生に後悔は特にありませんが、唯一悔いるべき点を挙げるとすれば、このことです。

 一度離れなければ、こういう見方をすることもできなかったのだとは思いますが、「憲法の価値の実現」という観点で行政官の仕事をしていたら、少し異なる働き方ができたいたのではないかとも思います。

追記

 本記事では、自然権の存在について、社会契約説的構成をとっています。これについては、いわゆる"後国家的"な参政権や社会権が基本的人権(自然権、観念上の人権)にならないという批判がありえます。それは一理ありますが、そもそも自然状態において、人間が自己のあり方を決定する権利や人間らしく生きる権利を有しており、それらがそれぞれ、国家の中で参政権や社会権(生存権や教育を受ける権利等)という形をとっているのであり、後国家的な権利についてもその淵源及び核心部分は、やはり自然権であると考えるべきでしょう。日本国憲法が、観念上の人権よりも広く憲法上の権利を保障していることは前述の通りですが、参政権や社会権に含まれる後国家的な部分は、本来の観念上の人権を守るためにあえて憲法が保障した周辺部分であると考えれば筋が通ります。

 なお、社会契約説的構成は、ジョン・ロックの思想に由来します。

完訳 統治二論 (岩波文庫)

 ジョン・ロックは、その中で、生命、健康、自由、財産を不可侵の権利(いわば自然権)としており、各自がそれを自由に処分することはできるが、それは神が与えたものであるから、自己のものであれ破壊すべきではないし、他人のものであれば侵害すべきではないと説きます。

 このようなキリスト教的な考え方が、日本国憲法の根底に存在していると考えるのは多少の違和感を感じるかもしれませんが、そもそもマッカーサー草案の原案となったと言われる憲法研究会の憲法草案要綱が、ワイマール憲法の影響を受けており、さらにそこにGHQ(アメリカ)の意向も加味されたことから、これを否定することはできないでしょう。

 このような考え方をすれば、やはり、表現の中でも、他者加害の程度が強く、社会的な害悪が大きいわいせつ表現や名誉毀損表現は、表現の自由の保障内容ひいては個人尊厳の原理が保障する内容に含まれないと考えて差し支えないのでしょう。